舞台裏

ピクセルアートと渋谷員子の35年

「ファイナルファンタジー」のドット絵を描いた女性の軌跡。

FINAL FANTASY

『FF』2Dリマスターの決定版

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ドット状のマス目に色を配置して絵を描くピクセルアートは、現在では様々なデザインの中で目にするアートの表現の一つです。その歴史をたどるなら、日本のゲーム業界で黎明期からピクセルアートの発展に貢献してきたクリエイター、渋谷員子さんの存在を欠かすことはできません。彼女は当時から数少ない女性スタッフの一人として35年以上にわたってゲーム業界で働き続け、現在では後進の育成にも尽力しています。

今でもゲーム業界での女性の地位は、まだ確立されていません。女性たちはもっともっと、ほしいものをほしいと言っていいと思います

スクウェア・エニックス 渋谷員子さん

渋谷さんのキャリアは、1986年にスクウェア(当時は株式会社電友社。現在の株式会社スクウェア・エニックス)にデザイナーとして入社したことで始まりました。以来35年以上にわたって彼女は、世界のロールプレイングゲームの先駆けとなった「ファイナルファンタジー」や「ロマンシング サ・ガ」シリーズなど、様々なゲームのグラフィックデザインに携わってきました。

まだピクセルアートではなく「ドット絵」と呼ばれていた時代のゲームグラフィックは、限られたドット数と色数の中で、ブラウン管のテレビ画面に映るゲームの世界観やキャラクターの個性を、プレイヤーへどう伝えるかに工夫を凝らす表現でした。彼女がどのようにその道を歩んできたかを、インタビューや貴重な資料と共に紹介します。

絵を愛する少女と ドット絵との出会い

「デザイナーとしてスクウェアに入社して、最初の仕事はドット絵ではなかったんです。『アルファ』というPCゲームの取扱説明書のイラストを描いて、その後『キングスナイト』という作品に関わったのが、ドット絵の初めての仕事だったと思います。賢者、戦士、怪獣、盗賊の4人が主人公のゲームで、最初はマップの木とかを書いていて、ちょっと寂しかったですね。頭の中では木とかレンガとかのモチーフがはっきりイメージできているのに、ドット絵にすると、こんな感じか……って。でも、一生懸命に16×16のドットと4つぐらいの色を使って、今の環境でやるしかないと思っていました」

「キングスナイト」プレイ画面より。

当時、わずか100キロバイトにも満たないデータ容量のゲームソフトを開発する中で、ドット絵のグラフィックに許された自由度は、ごくわずかなものでした。渋谷さんは、そうした制限の中で、次々と表現の幅を広げていきます。その背景には彼女が幼少期から培った、絵描きとしての素養と実力、そして情熱がありました。

「幼稚園のころ絵を描き始めて、小学生の時にはもう、自分は絵が上手いし得意だという認識があったんです。6年生くらいで、絵を描く仕事がしたい、と思うようになりました。家にいても、親戚の家にいても、マンガを読んだり気に入った場面をマネして描いてみたり。テレビの歌番組を見ながら女性アイドルのかわいい衣装をスケッチすることもよくやっていました。いつも紙と鉛筆を持っている。そんな子ども時代でした。

中学校で出会った美術部の先生には、デッサンを徹底的に習いました。ビーナスの胸像のデッサンを、毎日2時間かけて1枚描くんです。それをひたすら続けるという根性はありました。そこで、美術や造形の基礎を教えてもらったと思います。高校に入ると、友達とマンガを描いて、同人誌を作るようになりました。

その後は、美大を受験するか、マンガ家を目指すか、いろいろ迷ったんですが、当時は『機動戦士ガンダム』や『宇宙戦艦ヤマト』などのアニメも好きだったので、アニメーションの専門学校に入ることにしました。ただ、2年経った卒業のころにはアニメーターとして働くことへの情熱を感じられなくなってしまって、先生に相談した時に、たまたま紹介された求人先がスクウェアでした」

ファイナルファンタジーと ドット絵の進化

渋谷さんが入社したスクウェアは、1987年にリリースした「ファイナルファンタジー」のヒットをきっかけに躍進を遂げます。その後、シリーズ作品として1994年に発売された6作目「ファイナルファンタジーⅥ」まで、そのドット絵はゲームソフトと家庭用ゲーム機の進化を背景に、細かさと美しさを増していきました。

「ファイナルファンタジーⅥ」より。

「3作目までは同じファミコン(ファミリーコンピュータ)のソフトではありつつ、少しずつ変わっていったと思うんです。『Ⅰ』で培ったものを『Ⅱ』で変えてみたり、『Ⅲ』の頃には何となくコツや見せ方もわかって、こなれ感も出てきました。その後、『Ⅳ』のデザインは担当せず、『ロマンシング サ・ガ』のドット絵を描いていたので、私は2つのシリーズを渡り歩いて、天野喜孝先生と小林智美さんのイメージ画を、ドット絵にどう変換するかに取り組んできました。

「ファイナルファンタジーⅢ」より、「バハムート」のイメージ画とドット絵。

頭の中では、天野先生や小林さんのイラストをデフォルメしながら3Dのイメージにして、それを再度2Dに変換してドット絵で描くという作業をしているんです。おそらく、石膏像のデッサンを昔にやっていた経験がすごく活きていて、それと似たようなことなのかもしれません。

「サガ フロンティア」より、「アセルス」のイメージ画とドット絵。

その後、様々な作品に取り組むうちに、頭の中で3Dモデルをイメージして、それを回しながらドット絵を描けるようになりました。これは、他の人にはできないことだと思っています。きっかけとしては、1997年に手がけた『サガ フロンティア』がありました。この作品では、ゲーム画面が俯瞰の視点だったので、キャラクターを描く4人のデザイナーがパースを合わせるために、キャラクターごとの3Dモデルデータを作って、そこからドット絵にしていきました。その頃から、そうした空間認識の技術が自然と身についていったと思います」

「ドット絵の匠」と ピクセルリマスターの挑戦

いつしか「ドット絵の匠」と呼ばれるようになった渋谷さんの仕事に改めて注目が集まったのは、2012年の「ファイナルファンタジー」シリーズ25周年に発売されたゲーム音楽のトリビュートアルバム「FINAL FANTASY TRIBUTE ~THANKS~」のCDジャケットと、2021年から2022年にかけて『Ⅰ』から『Ⅵ』までの6作品が一新されて発売された「ピクセルリマスター」プロジェクトでした。

トリビュートアルバムのCDジャケットで、渋谷さんは「Ⅶ」以降の人気キャラクターを初めてドット絵で描き下ろしました。また「ピクセルリマスター」では、渋谷さんはすべてのプレイヤーキャラクターを、ゲームのために改めて描いています。

「25周年のCDジャケットを制作した時に、『Ⅶ』の人気キャラクターのクラウドをドット絵にしたのが話題になって、そこで私の仕事や名前がより広く認知されるようになりました。その後、『ファイナルファンタジー』のドット絵の究極になったのが、35周年の『ピクセルリマスター』だったと思っています。リメイクなので、これは過去の自分への挑戦でもありました。

『Ⅰ』から『Ⅵ』まで10年近くかけて続いたシリーズで、メインのプレイヤーキャラクターだけとはいえ、相当な仕事量になりました。新しいけれど、古くあってほしい。描き直したけれど、描き直されたことを意識してほしくないという気持ちがあって、最後の最後まで細かく直したんです。

楽しいのはゲーム本体で、絵というのは、ストーリーに没頭していくためのエッセンスです。だから、絵は昔とあまり変わらないように感じてもらえる方が、作り手としてはうれしい。ゲームはいろいろなスタッフの集大成です。今回は、以前のスタッフの中でも私がまだ一人スクウェア・エニックスに残っているから描くことができました。結果として、全体がきちんと完成できて良かったと思います。35年ごしに、ごほうびをもらったような気がしました」

世界中のファンや 続く女性たちに伝えたいこと

35年以上に及ぶ充実したキャリアを経て、渋谷さんは現在、スクウェア・エニックスのアートディレクターとして後進の育成にも務めています。一人のデザイナーとして、また一人の女性として、改めて自分のキャリアを振り返ると、そこには多くの変化があったと言います。

「私は、スクウェア初の新卒新入社員だったんです。小さなオフィスで、毎日ひたすら絵を描いて、シンプルに楽しかった。高校の友達は銀行などに就職して、2、3年勤めて結婚して家庭に入る、みたいな当時の女性キャリアの定番コースが多くて、自分も自然にそうなると思っていたんです。でも、気づいたら仕事まっしぐらになりました。好きな仕事をして、お金がもらえて、大変なことも多かったけれど、やりがいもあり、楽しかったんです。

35年を経て変わったのは、ソーシャルネットワークなどでユーザーの声が直接に聞こえるようになったこと。それから、世界からの評価も見えやすくなったことだと思います。米国のロサンゼルスのイベントでサイン会をした時に、30代か40代くらいの男性から『ゲーム業界そのものが未確立だった時代に、あなたは女性でその世界に入り、今もまだ居てくれている。素晴らしい人だ!』と言われたんです。自分をそうやって見てくれている人もいるのか、と思いました。

フランスに行った時には『Women In Games』という、ゲーム業界で働く女性のための団体に招かれました。日本のゲーム文化は海外より昔からあるのに、そういう活動や助け合いはありませんでした。私が男性たちと一生懸命に仕事をしている間に、結婚や出産を選んだり、キャリアを諦めて辞めていった女性たちも、たくさんいたんだと思います。今ではスクウェア・エニックスにも女性が多くいますし、結婚や出産で仕事を離れても、また戻って来られます。それでも、当時から、自分がもう少し声を上げることができたかもしれないという後悔も感じています。

もちろん今でも、ゲーム業界での女性の地位は、まだ確立されていないと思っています。格差やハラスメントなど、様々な問題があります。だからこそ、若い世代にはどんどん手を上げて、一歩踏み出してほしい。昔とは違うやり方で、私を追いかけてくる人に出てきてほしいです。もっともっと、女性たちは、ほしいものをほしいと言っていいと思います」

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