3月は女性史月間

社会とつながり声を届けるために

芥川賞作家、市川沙央さんインタビュー。
私はフェミニズム文学に、女性であり障害があることのインターセクショナリティをテーマとする小説も加わる必要があると考えて『ハンチバック』を書きました

市川沙央さん

2023年に小説「ハンチバック」で文學界新人賞と芥川賞を受賞し、鮮烈なデビューを果たした小説家の市川沙央さんは、電動車椅子と人工呼吸器を使って日常生活を送りながら、20年以上の創作活動を続けてきました。

「ハンチバック」の主人公は、市川さんと同じ先天性ミオパチーによる症候性側弯症という障害を持つ、井沢釈華(しゃか)という女性です。市川さんは彼女の物語を通じて、多くの読者が暮らす「普通」の生活では見聞きしないであろう一人の人間の、日常生活や感情の起伏、性のあり方までをつぶさに描き出してみせました。

執筆に欠かせない
アプリとデバイス

作品中で描かれる釈華の生活と同じように、市川さんは執筆や日常に、デバイスとアプリを欠かさず活用してきたと言います。紙とペンでの執筆はもちろん、パソコンに向き合ってキーボードを打ったり、紙の本のページをめくって読んだりする行為に肉体的な困難が伴う場合、日常や創作のプロセスは、どのようなものになるのでしょうか。

「使っているデバイスはiPad miniとiPhone、執筆はおもにiPad miniです。執筆に使用しているアプリは『iText Pad』です。縦書きできるテキストアプリを探していて、『iText Pad』を導入しました。入力は横書き画面になりますが、原稿用紙設定など色々なレイアウトでチェックができ、何よりも動作が軽くて安定しています。かなり長く使っていますが、これまで一度もアプリが落ちたりデータが消えたりしたことがないので、驚異的な安定感です。

「iText Pad」横書きのメモ用画面。

『iText Pad』はフォント(デフォルト設定は“ヒラギノ明朝ProN W3”)とレイアウト(“文庫本”に設定)がきれいで大変気に入っています。小説を縦書きにしたときに、それなりの出来の文章に感じられるんです。いつも、書き終えた小説を賞に応募するために最終的にノートパソコンの『Word』(“MS明朝”に設定)に流しこんで推敲するのですが、その段階になると画面上では全然いい文章に見えなくなってしまってがっかりしてしまうくらい、『iText Pad』のレイアウトは読みやすいです。“MS明朝”も印刷するときれいなんですが」

「iText Pad」縦書きのレイアウト確認画面。

「ハンチバック」には、数多くの俗語やネット用語が登場します。市川さんはテキストを執筆しつつ、iPad mini上でブラウザから調べものをして、頻繁に行ったり来たりしながら作品を書き上げていったそうです。また執筆以外でも、その生活には様々なアプリが登場します。

「『ハンチバック』は、読者の方にも言葉を調べながら読んでくださっているという方が多くいらっしゃって、お手間をおかけして申し訳ないほどです。調べものの多くはブラウザ(『Safari』)でのネット検索ですが、変わったところでは『コンパス』アプリで部屋の間取りと窓の位置を考えたり、『Measure』というAR定規アプリで家具や本の大きさを遠隔で計測したりしていました。

原稿がいったん完成すると、ゲラ(校正)のPDFをチェックしたりコメントを入れたりするための『Adobe Acrobat Reader』や『Word』、ノートパソコンとデータを共有するために『Dropbox』を使っています。iPhoneでは『X』と『Instagram』、それから執筆中はWNYCというアメリカのラジオ局(NPR系列の地方局)やBBC WORLDの放送を放送局のアプリで聴いていることが多いです。あとは、読書する時に『Kindle』アプリ、自分で声を出すのが難しいときには『読み上げアプリ』を使っています」

「読み上げアプリ」では様々な音声を設定して、入力文や定型文を読み上げられます。

国際女性デーと
女性たちの連帯

1975年に国際連合が定めた3月8日の「国際女性デー」は、今年で50回目を迎えました。日本はもちろん、世界中の女性たちが社会参加と地位向上のために連帯を呼びかけるこの記念日に対して、市川さんは特別な想いを抱いてきたと言います。

「執筆しながら英米のニュースラジオをアプリで聴いていますと、国際女性デーには一日を通して世界各地の女性にかかわる課題、話題、ライフストーリーが取り上げられています。私はデバイスとアプリで海外のメディアにアクセスしやすくなったこの十年ほどのあいだに、国際女性デーを知り、連帯の意識も高まりました。

私は最初に入った通信大学で生涯学習(リカレント教育)について学び、二つめの大学では人間科学部というところにいました。生涯学習も人間科学も、一つの専門分野を深く掘るよりは、学際的な研究、つまり二つ以上の分野をまたいで現実社会の複雑さと向き合うことが求められる場所です。そこで私は障害×女性×表象文化(文学)というテーマを見つけたわけです。障害学と女性学はマイノリティを扱うという意味で隣接しているだけでなく、女性であり障害がある私のような人の置かれた状況を見るとき重なり合います。

『ハンチバック』でも言及した米津知子さんは、ウーマンリブの時代から障害女性としてのインターセクショナリティを意識して活動されてきた方です。私は障害女性として米津さんをリスペクトすると同時に、今現在一つの潮流であるフェミニズム文学(というものがあるとして……)に、女性であり障害があることのインターセクショナリティをテーマとする小説もまた加わる必要があるだろうと考えて『ハンチバック』を書きました。

日本ではここ一、二年くらいでしょうか、地上波テレビのニュース番組で国際女性デーの話題を取り上げるようになった気がします。昨今ではこうした国連主導の啓蒙に反発する人々がどこの国にもいて、日本でも『♯家父長制を解体しよう』のツイートが炎上するなど、バックラッシュの層が目立ってきていますが、そのような方々にはそもそも国際〇〇デーという取り組みに関して、耳慣れていないからでしょうか、誤解があるように思います。もし国内には何も問題がないのだと思うのなら、その素晴らしい実績をあげた知恵を国外の課題に振り向けていくのが先進国と呼ばれた国の責任です。

また、私自身にとっては、創作活動において十年来の同志のような友人がいます。新人賞に応募する小説をお互い読んで感想を交換し、予選通過や落選を報告しては励ましあってきました。本当に長い長い投稿生活でしたので、彼女の励ましがなければ今まで続けてこられなかったと思います」

文字での創作を志す
すべての人へ

もし、紙とペンでの執筆や、紙の本を読むことに肉体的な困難を感じる誰かが、これから市川さんのようにアプリとデバイスを用いて文字での創作活動を始めようとする場合、どのようなアドバイスがあるでしょうか。また、今後のアプリやデバイスが果たせる役割は、どのようなものでしょうか。そんな問いかけに市川さんはこう答えます。

「私が創作活動を始めた頃、2000年代はまだ、インターネットで創作活動を完結できる環境ではありませんでしたので、賞への応募は紙にプリントして郵便で出すのが一般的でした。今ではデバイス上で執筆から応募まで可能になりました。

ごく一部を除き、ほとんどどこの小説新人賞もウェブサイトから応募ができますし、また、『カクヨム』、『小説家になろう』など各種小説サイト上での作品発表、それから電子書籍や紙の書籍を自分で出版するKDP(Kindleダイレクト・パブリッシング)という方法もあります。以上のすべて、実際に家から一歩も出ずに私にも可能でした。ネットバンキングと併用すれば、家にいながら創作活動を収益化することも不可能ではありません。ぜひ気軽にチャレンジしてみてください。

アプリに関しては、UIのアクセシビリティの向上あるいは洗練という形で、さまざまな特性のある人(視覚障害や知的障害、ディスレクシアなど)がデバイスを使いこなして楽しみ、便利に暮らすことに貢献できると思います。

私のような障害のある人にとってデバイスは社会とつながるために欠かせないものです。本も読めるし、映画も観られるし、デジタル図書館や博物館があり、SNSなどを通じてコミュニティに参加できる。文化の享受と発信(インプットとアウトプット)という社会参加の機会が増えることで、これまで現実社会とつながりにくかった障害者の姿と声が可視化され、情報アクセシビリティや読書バリアフリーの課題が社会にも認識してもらえるというサイクルがあると思います。こうしたサイクルを、デジタルデバイスの機能やコンテンツのさらなる発展が加速させていくのではないかと思います」

次回作に向けて

フィクションながら、自身の体験や感性を強烈なリアリティで作品へと昇華させた「ハンチバック」に続く、市川さんの次回作とは。インタビューの最後に、表現者としての現在地を市川さんはこう言葉にします。

「私はこれまで二十年ほどライトノベルを中心に小説応募を続けてきました。とくにこの十年は、軽々デビューしていく人たちと自分との差が鮮明になり、挫折感を抱えていました。高い高い絶壁の崖が目の前にあるような感じで、まいにち朝に目が覚めるたび暗い気持ちが襲ってきました。老いて死ぬまでこの苦しみからは解放されないのだろうと観念していたのですけれども、その壁が、急になくなってしまったんです。逆にどうしたらいいやら、わからないです。

今はまだ、消えた崖の前で呆然としていて次の大きな目標は立っていないのですが、とりあえず一作、次作を完成させる。それが終わればまた次の一作を書く、ということを地道にやっていくだけです。やるべきことも、小説を書くときの七転八倒も、投稿時代と変わらないんだと思います。変わらずやっていきます」

市川さんが活用しているアプリ

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